特別保存刀剣 

水心子正秀 脇差

No.078941

脇差 水心子正秀 寛政元年二月日 濤欄乱最高傑作 刀剣美術所載 重要候補 新々刀最上作 一尺八寸
銘表 水心子正秀
銘裏 寛政元年二月日
登録証 新潟県 昭和 37 年 9 月 15 日
寸法 刃長 54.6 cm (一尺八寸)・ 0.9 cm ・ 3.1 cm ・ 2.2 cm ・ 3.7 cm ・ 17.1 cm
0.75 cm ・ 0.77 cm ・ 0.64 cm
600 g
武蔵 時代 江戸時代後期
姿 鎬造、庵棟、身幅広く、反りやや浅く、中鋒。
小板目肌つみ、地沸厚くつき、鉄明るく冴える。
刃文 大互の目に、互の目、濤欄風に乱れ、足太くよく入り、沸深くよくつき、粗めの沸を交え、砂流し掛り、匂深く、匂口明るく冴える。
帽子 のたれ込んで先掃きかけて深く返る。
生ぶ、先刃上栗尻、鑢目筋違化粧、目釘孔一。
ハバキ 金着一重。
説明

水心子正秀は、寛延三年羽州上杉領で生まれ、名を川部儀八郎といい、初め武州下原吉英に師事し宅英と銘する。安永三年山形秋元家の藩工となり、川部儀八郎正秀と改め、水心子と号した。作刀は安永から文政まで50年ほどに及び、初期の天明・寛政・享和の頃は大阪新刀を理想として助広風の濤欄乱あるいは真改風の直刃調の刃を焼き、晩年には、復古論を唱え、復古刀の実践者として、相州・備前・美濃の各伝を試みているが、初期の大阪新刀を理想として作刀したものに優作を見る。文政八年七十六歳で没。特筆されるのは、その技術を十数冊の本にして公開したことで、門弟も直胤を初めとして百余人を数える。この刀は、享和元年正秀40歳の作で、身幅広く、先幅広く、重ねも厚い堂々とした体配に、沸匂深く、大小の沸が美しく輝き、助広をも凌駕する濤欄乱を見事に焼いた最高傑作である。日本美術刀剣保存協会の鑑定刀で刀剣美術所載、生ぶ刃も残り、茎も鏨枕がたち、頗る健全な重要候補の一口である。

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