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水心子正秀 脇差

No.253517

脇差 水心子正秀 正日出銘 享和元年二月 新々刀最上作 皆焼長谷部写し名品 一尺五寸七分
ご成約
銘表 正日出 刻印(正秀)
銘裏 享和元年二月
登録証 岩手県 平成 24 年 1 月 20 日
寸法 刃長 47.6 cm (一尺五寸七分)・ 0.8 cm ・ 3.1 cm ・ 2.6 cm ・ 6.9 cm ・ 16.7 cm
0.16 cm ・ 0.57 cm ・ 0.42 cm
387 g
武蔵 時代 江戸時代
姿 鎬造、庵棟、身幅広く、鎬高く、反り浅く、大鋒。
板目肌つみ、杢目・流れ肌交じり、所々大肌交じえ、地沸厚くつき、鉄明るく冴える。
刃文 互の目に、湯走り・飛び焼き頻りに掛り、足太く入り、小沸深くよくつき、沸筋・砂流し掛り、匂深い。
帽子 乱れ込んで小丸。
生ぶ、先切、鑢目筋違化粧、目釘孔二。
ハバキ 金色絵一重。
説明

水心子正秀は、寛延三年羽州上杉領で生まれ、名を川部儀八郎といい、初め武州下原吉英に師事し宅英と銘する。安永三年山形秋元家の藩工となり、川部儀八郎正秀と改め、水心子と号した。作刀は安永から文政まで50年ほどに及び、初期の天明・寛政・享和の頃は大阪新刀を理想として助広風の濤欄乱あるいは真改風の直刃調の刃を焼き、晩年には、復古論を唱え、復古刀の実践者として、相州・備前・美濃の各伝を試みているが、初期の大阪新刀を理想として作刀したものに優作を見る。文政八年七十六歳で没。特筆されるのは、その技術を十数冊の本にして公開したことで、門弟も直胤を初めとして百余人を数える。この刀は、享和元年正秀54歳円熟期の作で、身幅広く、重薄く、大鋒となる南北朝時代の体配に、棟を削ぎ落とした長巻直しの姿で、茎の孔も四角く瓢箪形に開ける凝りようで、互の目に、湯走り・飛び焼き頻りに掛り、皆焼きとなる長谷部辺りを狙った作で、大肌交じる地鉄や、深く柔らかい匂口など、銘が無ければ古作に見える出来栄えである

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