特別保存刀剣 

国貞 脇差

No.762203

慶安頃 

和泉守藤原国貞 身幅3.3cm 精良で美しい地鉄に広直刃足葉入る健全最高傑作 一尺五寸
¥800,000(税込)
銘表 和泉守藤原国貞
登録証 大阪府 昭和 30 年 2 月 1 日
寸法 刃長 45.4 cm (一尺五寸)・ 1.2 cm ・ 3.3 cm ・ 2.3 cm ・ 3.1 cm ・ 13.7 cm
0.75 cm ・ 0.75 cm ・ 0.55 cm
500 g
摂津 時代 江戸時代前期
姿 鎬造、庵棟、身幅広く、反り尋常、中鋒詰まる。
杢目肌つみ、板目肌・小杢目肌交じり、地沸微塵に厚くつき、地景細かくよく入り、鉄明るく冴える。
刃文 広直刃、僅かに小互の目交じり、足・葉よく入り、小沸深くよくつき、匂口明るい。
帽子 直ぐに小丸。
生ぶ、先栗尻、鑢目大筋違、目釘孔一。
ハバキ 赤銅一重。

初代和泉守国貞は、天正十七年(1589年)に日向で生まれ、後に上京し親戚と伝わる堀川国広の門となるが、国貞の初期の作風や銘振りから見て、兄弟子である越後守国儔から指導を受けたと思われる。慶長十九年(1614年)国貞二十五歳の時に師である国広が亡くなり、その後同門である初代河内守国助と共に大坂へ移住し大阪新刀の礎を築き、元和九年(1623年)に和泉守を受領している。初二代共に和泉守国貞と銘を切ることから、初代国貞を通称親国貞、二代国貞を真改国貞と呼んでいる。慶安五年六十三歳没。真改は、名を井上八郎兵衛といい、寛永7年(1630年)、初代国貞の次男として日向国木花村木崎にて生まれ、9歳より当時京都に居た父の下に赴き作刀を学び始め、20歳ごろには盛んに父の代作を行ったといわれ、慶安5年(1652年)、24歳で父の死去に伴い国貞を襲名、同年に「和泉守」を受領、万治四年頃に朝廷より菊紋を茎に切ることを許され、寛文12年(1672年)8月より「真改」と名を改め、銘を「井上真改」と切るようになる。10年後の天和二年に五十三歳で急逝している。この刀は、3.3cmと身幅広く、反り尋常、鋒詰まりごころの堂々とした体配で、杢目交に、地沸微塵に厚くつき、地景よく入り、明るく冴える精良で美しい地鉄に、広直刃に、足・葉よく入り、匂口明るく、頗る健全で出来が良い。銘は、藤代刀工辞典の真改代銘に近似しており、地刃の出来からも真改代作代銘と思われる最高傑作である。

説明

初代和泉守国貞は、天正十七年(1589年)に日向で生まれ、後に上京し親戚と伝わる堀川国広の門となるが、国貞の初期の作風や銘振りから見て、兄弟子である越後守国儔から指導を受けたと思われる。慶長十九年(1614年)国貞二十五歳の時に師である国広が亡くなり、その後同門である初代河内守国助と共に大坂へ移住し大阪新刀の礎を築き、元和九年(1623年)に和泉守を受領している。初二代共に和泉守国貞と銘を切ることから、初代国貞を通称親国貞、二代国貞を真改国貞と呼んでいる。慶安五年六十三歳没。真改は、名を井上八郎兵衛といい、寛永7年(1630年)、初代国貞の次男として日向国木花村木崎にて生まれ、9歳より当時京都に居た父の下に赴き作刀を学び始め、20歳ごろには盛んに父の代作を行ったといわれ、慶安5年(1652年)、24歳で父の死去に伴い国貞を襲名、同年に「和泉守」を受領、万治四年頃に朝廷より菊紋を茎に切ることを許され、寛文12年(1672年)8月より「真改」と名を改め、銘を「井上真改」と切るようになる。10年後の天和二年に五十三歳で急逝している。この刀は、3.3cmと身幅広く、反り尋常、鋒詰まりごころの堂々とした体配で、杢目交に、地沸微塵に厚くつき、地景よく入り、明るく冴える精良で美しい地鉄に、広直刃に、足・葉よく入り、匂口明るく、頗る健全で出来が良い。銘は、藤代刀工辞典の真改代銘に近似しており、地刃の出来からも真改代作代銘と思われる最高傑作である。

国貞 脇差 特別保存刀剣
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