藤正 村正洒落銘 タナゴ腹茎 のたれに互の目交じり表裏揃う典型作 金筋砂流し掛り地刃明るく冴える優品 一尺
特別保存刀剣

藤正 脇差

No.685023

藤正 村正洒落銘 タナゴ腹茎 のたれに互の目交じり表裏揃う典型作 金筋砂流し掛り地刃明るく冴える優品 一尺

¥6,000,000(tax included)
Kiwame
藤正
Registration
Tottori 5/8/26(Showa)
Period
室町後期天文頃
Size

Hachou 30.3cm (1尺) Sori 0.3cm
Moto-Haba 2.7cm Moto-Kasane 0.45cm Nakago-Chou 9.8cm Weight 156g

Country
伊勢
Shape
平造、庵棟、僅かに反りつく。
Kitae
板目肌つみ、杢目肌交り、地沸微塵に厚くつき、地景よく入り、鉄明るく冴える。
Hamon
浅くのたれて、互の目交じり、足入り、小沸深くつき、金筋・砂流し掛り、匂口明るい。
Boushi
地蔵風に小丸、深く返る。
Nakago
生ぶ、先入山形、鑢目勝手下り、目釘孔二。
Habaki
金着二重。
Carving
表裏に二筋樋を彫る。
Drscription
村正が徳川家に祟る刀といわれた所以について、徳川将軍家の公式記録である「徳川実紀」によると、家康の祖父松平清康が天文四年(1535年)に家臣に村正の刀で斬られた事に始まり、父広忠が乱心した家臣に村正の脇指で刺され、信長から内通の嫌疑をかけられ、切腹に追い込まれた家康の長男信康を介錯した刀も村正であり、また、家康自身も信長の甥長孝の戦功報告を受けた際に、村正の槍を検分中に手に怪我を負ったりと、凶事がいくつも重なったとあり、村正は徳川家に祟る妖刀として一般に広く認知されるようになった。初代村正は、美濃赤坂兼村或いは関兼春の門で、美濃から伊勢国桑名の地に移住したと伝わり、初代村正の現存する最も古い年紀が文亀元年(1501年)で、以後代の継承がみられ、天文頃の村正が二代、天正頃の村正を三代としている。藤正銘は、村(むら)を紫にかけ、紫の花といえば藤と、村正が洒落で切った銘と言われている。現存数振りしか確認されていない希少なものである。この刀は、一尺ちょうどの大振りの短刀で、タナゴ腹茎に、杢目交じりのよくつんだ美しい地鉄に、のたれに互の目まじりの表裏が揃った刃を焼き、小沸深くつき、金筋・砂流し掛る典型作で、地刃明るく冴える優品である。
藤正 脇差 特別保存刀剣