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大和伝とは、大和国(現在の奈良県)で興った五ヶ伝と呼ばれる刀の代表的な流派の一つです。

大和伝の発祥は、五ヶ伝の中でも最も古いといわれており、一説にはその源流は正倉院に所蔵されている刀剣類にまで遡れるのではないかと言われています。

大和鍛冶として最も古く名が出てくるのが天国とその門人とされる天座です。彼らの活躍時期は大宝頃と古書に書かれていますが、正真確実な彼らの在銘作は現存していません。御物になっている名物「小烏丸」は、無銘ながら「天国作」と伝えられていますが、現在の研究では平安前期の作とみられているので、古書でいう天国の活躍時期まで時代が上がりません。その為に、天国の活躍時期を下げるか、或いは天国の後代が小烏丸を製作したととらえるかについては今後の研究が待たれます。

平安末期頃から大和国にあらわれるのが、大和五派の名で総称される大和伝を代表する五つの流派です。

大和五派とは、千手院派、当麻派、手掻派、尻懸派、保昌派の五派のことを指します。何れの流派も在銘物が少ないのが特色で、殊に鎌倉期の大和物の在銘物は希少です。

大和五派で最古の歴史を持つ千手院派は、奈良若草山の西山麓に位置する千手谷に居住したと伝えられています。千手谷とは、同地に千手観音を本尊とする千手堂が所在した為に付いた俗称です。千手堂は、東大寺の起源である金鐘寺(こんしゅじ)にあった堂の一つで、羂索堂(現在の法華堂)と共に八世紀頃から古書に記録がみられます。古地図をみますと千手堂はかつて二月堂の近くにありましたが、江戸期の火災の後に移築されて、現在は東大寺境内の戒壇堂隣に位置しています。院と堂の違いですが、この院は塔頭としての院と思われ、月日が経つにつれて千手院という名称がなくなり、千手堂という建物のみが残ったと推測されます。

また、千手院派は在銘物の少ない大和物の中でも殊に在銘物が少なく、それが研究の妨げになっています。古書によると、千手院の「院」に特色があり、そこから代別が可能とありますが、その遺例が極端に少なく、それも容易ではありません。大和奈良の地は、中央から近いために古来戦乱が多く、その度に多くの建物や文書、宝物が焼失或いは略奪されています。勿論、刀剣も例外ではなく、また実用品という側面もある事から、在銘作が必然的に少なくなったと思われます。同派の在銘作は、鎌倉初期から南北朝期にかけてみられ、その中でも国宝に指定されている千手院長吉の大太刀が斯界では著名です。

当麻派は、大和国北葛城郡当麻(現在の奈良県葛城市當麻)で鍛刀したと伝わる一派で、鎌倉期の正応頃に活躍した国行を祖とし、鎌倉後期から南北朝期にかけて繁栄しました。国行の子といわれる友清や、国行の門人であり、永仁六年の年紀作が現存する有俊など、他にも数名の刀工が銘鑑ではみられますが、「元亀元年刀剣目利書」を始めとする古書で「当麻派の刀工は銘を切る事は稀である」と書かれているように、現存する有銘作は前述の千手院派同様に極めて少なく、作刀の多くは無銘極めのものです。

同派の代表工は、同派の祖である国行で、同工の代表作としては備後福山藩主阿部家旧蔵で国宝に指定されている太刀が挙げられます。また同派の作は享保名物帳に五口採り上げられていますが、現存しているものは「上部当麻(桑山当麻とも呼ばれる)」と「上部当麻(城和泉当麻とも呼ばれる)」の二口のみです。

手掻派は、包永を祖とする刀工群で、代々包の字を通字としています。同派は、元々東大寺西大門の輾害門近くに住んでいた事からこの名が付いたと言われていて、場所柄東大寺より御用を受けていたのではないかと推測されています。同派は、所謂大和五派の中でも最も名工が多く、長きにわたり名跡が続いていて、その末裔には新刀期の南紀重国なども名を連ねています。

室町期の手掻派の作は、末手掻と呼ばれ、包俊や包清、包真、包行、包貞などの刀工の作例が現存しています。また、末手掻の作の特徴として太刀や刀よりも短刀が多くみられることが挙げられます。

手掻派の代表工は、同派の祖である包永で、同工は大和伝を代表する名工の一人でもあります。包永は、鎌倉末期の正応頃の刀工で、代表作としては名物児手柏があります。児手柏の号は、所持者であり歌人としても名高い細川藤孝(号幽斎)が、同太刀の表裏の刃文が異なる様から、万葉集の「なら山の 児手柏の ふた面に かにもかくにも ねじけびとの友」の歌から因んで 名付けたものです。藤孝から次男で後に初代矢田部藩主細川興元へと譲られ、それを徳川家康が五百貫で召し上げました。その後、家康の十一男で初代水戸藩主徳川頼房へと与え、以後同家に伝わっていましたが、関東大震災で残念ながら焼身となってしまいました。現在は、水戸徳川家所縁の文書や美術品などを管理する公益財団法人徳川ミュージアム(茨城県水戸市)が所蔵しています。包永の作は、国の指定品に大和物で最多である十六口が指定あるいは認定されていて、内訳は国宝一口、重要文化財六口、重要美術品九口です。

保昌派は、鎌倉末期から南北朝期にかけて栄えた流派で、大和国高市郡に在住した一派です。一派の代表工としては、貞吉、貞宗らが知られていて、他にも貞清、貞興、貞光などに在銘が見られます。また、比較的在銘の少ない大和物の中でも保昌派は殊に在銘が少なく、短刀の在銘物は何口か見られますが、現存する正真確実な太刀の在銘作は居住地を切った貞吉の作(重要美術品)や南紀徳川家に伝来した貞継(重要文化財)など数口のみに留まります。

同派の代表的な作風としては、所謂大和五派の中でも最も顕著に柾目鍛えがあらわれることと、茎には檜垣鑢をかけるといった特色がありますが、一方で同派の諸工には刀工毎の際立った個性が少なく、無銘の保昌極めの物で個名極めは稀です。

尻懸派は、所謂大和五派の一派で、一派の居住地は、大和国山辺郡岸田村字尻懸辺(現在の奈良県奈良市雑司町垣内)と伝わっています。

同派の代表工としては、則長の名が広く知られていて、銘鑑上では一派の祖と伝わる則弘や則成、則国などがみられますが、何れの刀工にも在銘はほとんど見られず、則長のみ在銘物がみられ、また鎌倉期から室町期にかけて代の継承がみられます。

大和五派以外の大和伝の流派としては、千手院派の流れをくむ刀工とされる龍門派や室町末期以後に活躍した金房派などがあります。

龍門派は、吉野郡龍門荘で鍛刀したことからそう呼称されたといわれています。

一派の代表工は、龍門延吉で、直刃調の大和風の作と丁子の目立つ備前気質の現れた作の二様を残した異色の刀工です。延吉の代表作として知られるものが、かつては御水野天皇の御料で、現在は(公益財団法人)日本美術刀剣保存協会が所蔵する国宝指定の太刀です。この太刀は、中直刃調に小丁子、小乱などを交えた一見すると古備前を思わせるような作品で、本太刀の優れた出来映えによって龍門延吉の名を高めているといっても過言ではない名刀です。

金房派は、室町末期頃に大和国奈良で興隆した一派です。現在の研究でも同派と大和五派との関りについては定かではありません。一派の刀工としては、正真や政次、正実、政貞などがいて、その多くが刀工名に「正」か「政」の字を用いています。一派の特徴として、場所柄なのか槍の作例が多いことが挙げられます。宝蔵院をはじめとした僧兵や当時の主武器である槍を求めた武士からの注文が多かったと思われます。

また、天下三名槍の一つである日本号は、今日では同派の作と鑑せられています。