真改のご紹介
特別保存刀剣 井上真改 菊紋 寛文十二年八月日 重要候補 沸匂深く地刃冴え渡る最高傑作 時代黒蝋色塗鞘拵 一尺四寸九分
特別保存刀剣 刀 真改代作代銘 和泉守藤原国貞 焼き鎬にまで掛り華やかに乱れ沸匂深い代表作 二尺二寸八分
井上真改は、新刀随一とまで讃えられる沸の見事な華麗な作風から、世に「大坂正宗」と称される程の名工ですが、殊に真改に改銘後の青く澄み渡ったような地鉄の冴えは、他の最上作の刀工を寄せ付けないものを感じます。
真改は、通称を八郎兵衛と称し、寛永七年(1630年)に初代和泉守国貞の次男として生まれました。因みに、初二代共に和泉守国貞と銘を切ることから、斯界では初代国貞を通称親国貞と呼び、二代国貞を真改国貞と呼んでいます。
真改の父である初代和泉守国貞は、天正十七年に日向国で生まれ、後に上京して親戚と伝わる堀川国広の門下となりました。しかし、国貞の初期の作風や銘振りなどから見て、実際には門下の先輩格である越後守国儔から指導を受けたと考えられています。また、越後守国儔は国広の甥と伝わっているので、国貞にとっても親戚にあたる可能性があります。慶長十九年国貞二十五歳の時に師である国広が亡くなり、その後同門である初代河内守国助と共に大坂へ移住し、元和九年国貞三十四歳の時に和泉守を受領しました。晩年は、前述の通り次男である真改が代作代銘を行っていて、慶安五年に六十三歳で没したと伝わっています
真改の師伝については、父国貞に学んだという説、父と同様に越後守国儔に学んだという説、父が既に隠居していたことから父の高弟に学んだという説があります。
真改は、初銘を父と同じく和泉守国貞と切り、慶安頃から万治にかけての期間は前述の通り初代国貞が既に隠居していたことから代銘代作を多くしていたと言われています。
承応元年に和泉守を受領し、万治四年頃に朝廷より菊花紋を切ることを許されました。また、この頃から代銘である「和泉守国貞」銘から自身銘である「井上和泉守國貞」銘へと改銘しています。寛文十二年八月より、先輩であり師にもあたる熊沢蕃山からの勧めによって、和泉守国貞から真改へと銘を改めました。天和二年十一月に五十三歳で急逝していますが、「新刀弁疑」の記載では、酒に酔い、誤って井戸に落ちたものとかかれています。
真改の主な銘の変遷としては、初期は前述の通り親国貞の代作代銘をしていたので「和泉守国貞」と銘を切り、万治四年以降は「井上和泉守国貞」銘、寛文十二年八月からは「井上真改」銘へと改銘します。また、菊紋にも作刀時期によって差異があり、初期は菊紋の中心が格子になっていますが、中期は中心が点となり、後期にはまた格子へと戻っています。
真改の作風は、小板目肌詰み、地沸厚くつき、地景の入った鍛えに、初期は大互の目乱れを焼いた作がよく見られますが、中期から後期にかけてはそれに加えて中直刃もしくは広直刃調に浅く湾れた刃や小湾れ、互の目を交えた刃を焼いた作が多くみられます。殊にその沸の美しさや覇気に富んだ作風から後世に大坂正宗と称されたのも頷けます。
一説には、真改は相州正宗或いは郷義弘に私淑したとも伝わっていますが、残された彼の作刀には正宗、義弘の両工を狙った作も見られるのでその所伝には大いに頷けます。
また、真改は父国貞と同じく、生国である日向国飫肥藩主伊東家に仕えました。初代国貞の知行は百石でしたが、真改の代になってからは百五十石へと加増されています。これは、五万一千石の小藩である飫肥藩では上士格にあたる知行(飫肥藩では六十五石以上から馬上が許可されました)で、その事実からみても如何に藩主が井上家を大事にしていたかが伝わってきます。
真改の子として伝わる刀工に、井上良忠と井上奇峰がおりますが、両工の銘字に一定の共通点がみられることから、両工を同一人物とみるのが有力です。
両工共に作刀は極めて少ないですが、その理由としては作刀時期が全国的にみても作刀が少ない江戸中期にあたるという説と、高禄故に刀工を廃業して武士としていきたという説があります。江戸中期に、全国的に作刀が少ないのは事実ですので、単に注文が少なかった為に現存作が少ないと考えるのが一般的です。
但し、飫肥藩では藩工として堀川国広、親国貞、真改と名工が続いていたので、あとを受けた人がプレッシャーに負けて刀工を辞めたとしても不思議はありません。
真改のご紹介
特別保存刀剣 井上真改 菊紋 寛文十二年八月日 重要候補 沸匂深く地刃冴え渡る最高傑作 時代黒蝋色塗鞘拵 一尺四寸九分
特別保存刀剣 刀 真改代作代銘 和泉守藤原国貞 焼き鎬にまで掛り華やかに乱れ沸匂深い代表作 二尺二寸八分
真改のご紹介
特別保存刀剣 井上真改 菊紋 寛文十二年八月日 重要候補 沸匂深く地刃冴え渡る最高傑作 時代黒蝋色塗鞘拵 一尺四寸九分
特別保存刀剣 刀 真改代作代銘 和泉守藤原国貞 焼き鎬にまで掛り華やかに乱れ沸匂深い代表作 二尺二寸八分
井上真改は、新刀随一とまで讃えられる沸の見事な華麗な作風から、世に「大坂正宗」と称される程の名工ですが、殊に真改に改銘後の青く澄み渡ったような地鉄の冴えは、他の最上作の刀工を寄せ付けないものを感じます。
真改は、通称を八郎兵衛と称し、寛永七年(1630年)に初代和泉守国貞の次男として生まれました。因みに、初二代共に和泉守国貞と銘を切ることから、斯界では初代国貞を通称親国貞と呼び、二代国貞を真改国貞と呼んでいます。
真改の父である初代和泉守国貞は、天正十七年に日向国で生まれ、後に上京して親戚と伝わる堀川国広の門下となりました。しかし、国貞の初期の作風や銘振りなどから見て、実際には門下の先輩格である越後守国儔から指導を受けたと考えられています。また、越後守国儔は国広の甥と伝わっているので、国貞にとっても親戚にあたる可能性があります。慶長十九年国貞二十五歳の時に師である国広が亡くなり、その後同門である初代河内守国助と共に大坂へ移住し、元和九年国貞三十四歳の時に和泉守を受領しました。晩年は、前述の通り次男である真改が代作代銘を行っていて、慶安五年に六十三歳で没したと伝わっています
真改の師伝については、父国貞に学んだという説、父と同様に越後守国儔に学んだという説、父が既に隠居していたことから父の高弟に学んだという説があります。
真改は、初銘を父と同じく和泉守国貞と切り、慶安頃から万治にかけての期間は前述の通り初代国貞が既に隠居していたことから代銘代作を多くしていたと言われています。
承応元年に和泉守を受領し、万治四年頃に朝廷より菊花紋を切ることを許されました。また、この頃から代銘である「和泉守国貞」銘から自身銘である「井上和泉守國貞」銘へと改銘しています。寛文十二年八月より、先輩であり師にもあたる熊沢蕃山からの勧めによって、和泉守国貞から真改へと銘を改めました。天和二年十一月に五十三歳で急逝していますが、「新刀弁疑」の記載では、酒に酔い、誤って井戸に落ちたものとかかれています。
真改の主な銘の変遷としては、初期は前述の通り親国貞の代作代銘をしていたので「和泉守国貞」と銘を切り、万治四年以降は「井上和泉守国貞」銘、寛文十二年八月からは「井上真改」銘へと改銘します。また、菊紋にも作刀時期によって差異があり、初期は菊紋の中心が格子になっていますが、中期は中心が点となり、後期にはまた格子へと戻っています。
真改の作風は、小板目肌詰み、地沸厚くつき、地景の入った鍛えに、初期は大互の目乱れを焼いた作がよく見られますが、中期から後期にかけてはそれに加えて中直刃もしくは広直刃調に浅く湾れた刃や小湾れ、互の目を交えた刃を焼いた作が多くみられます。殊にその沸の美しさや覇気に富んだ作風から後世に大坂正宗と称されたのも頷けます。
一説には、真改は相州正宗或いは郷義弘に私淑したとも伝わっていますが、残された彼の作刀には正宗、義弘の両工を狙った作も見られるのでその所伝には大いに頷けます。
また、真改は父国貞と同じく、生国である日向国飫肥藩主伊東家に仕えました。初代国貞の知行は百石でしたが、真改の代になってからは百五十石へと加増されています。これは、五万一千石の小藩である飫肥藩では上士格にあたる知行(飫肥藩では六十五石以上から馬上が許可されました)で、その事実からみても如何に藩主が井上家を大事にしていたかが伝わってきます。
真改の子として伝わる刀工に、井上良忠と井上奇峰がおりますが、両工の銘字に一定の共通点がみられることから、両工を同一人物とみるのが有力です。
両工共に作刀は極めて少ない為、その理由としては、作刀時期が全国的にみても作刀が少ない江戸中期にあたるという説と、高禄故に刀工を廃業して武士としていきたという説があります。江戸中期に、全国的に作刀が少ないのは事実ですので、単に注文が少なかった為に現存作が少ないと考えるのが一般的です。
但し、飫肥藩では藩工として堀川国広、親国貞、真改と名工が続いていたので、あとを受けた人がプレッシャーに負けて刀工を辞めたとしても不思議はありません。
真改のご紹介
特別保存刀剣 井上真改 菊紋 寛文十二年八月日 重要候補 沸匂深く地刃冴え渡る最高傑作 時代黒蝋色塗鞘拵 一尺四寸九分
特別保存刀剣 刀 真改代作代銘 和泉守藤原国貞 焼き鎬にまで掛り華やかに乱れ沸匂深い代表作 二尺二寸八分